河原の葦をかき分けるように生きてきた
向こうが見えそうになると足下の泥濘が歩みを阻む
拓けた中洲に立つと行く先が見えなくなる
ジャブジャブと浅瀬を歩き
疲れたら岸でため息をつき
また歩いては葦の中で天を仰ぐ
繰り返し 繰り返し 繰り返し
何度となく目の前を阻む灰色の壁も
眺めてみたり よじ登ったり 壊してみたり
これまでもそうだったし
これからもそうでありたい
でも そっと
葦の中で天を仰いでいたい
河原の葦をかき分けるように生きてきた
向こうが見えそうになると足下の泥濘が歩みを阻む
拓けた中洲に立つと行く先が見えなくなる
ジャブジャブと浅瀬を歩き
疲れたら岸でため息をつき
また歩いては葦の中で天を仰ぐ
繰り返し 繰り返し 繰り返し
何度となく目の前を阻む灰色の壁も
眺めてみたり よじ登ったり 壊してみたり
これまでもそうだったし
これからもそうでありたい
でも そっと
葦の中で天を仰いでいたい
このブログを初めて描いたのが2005年
つたなくてもつたなくても
描いた
描き続けた
そろそろ潮時かな
と思っては描き
アクセス数なんてゼロでも
少し寂しくなりながらも
描いた
描き続けた
2022年
残された時間もそれほど長くないなと感じるようになった
でも行き場がわからなくても
描くんだな
描き続けるんだな
きっと好き勝手に他人の迷惑も考えずに
描くんだな
描き続けるんだな
だって
自分自身との唯一の会話の時間だから
こんなに時間だけは過ぎたのに
少年の頃に怖かったものは今も怖くて
浅い眠りの中でまだうなされ続けている
通りすがりの人のため息交じりの目線
強大な組織に組み込まれていくような恐怖感
深く手の届かないところを激しく流れる泥の川
そう何十年も過ぎたのに
少年の頃の記憶は幾重にも上塗りされて
深い呼吸の中でまだ脈打ち続けている
何だろうこの感じ
自分が吐いた息を、力一杯抱きしめているようだ
虫の息だけど
なんとかやってるよ
生きてくことなんて
こんな些細なことの繰り返し
インターネットの向こう側で
時々微笑んだり、涙を浮かべてたあの人は
どこへ行ったのだろう
夜の静寂の中で耳をすますと
時々微笑んだり、大きなため息をついたあの人は
何を見つめているのだろう
瞼に映るあなたとの時間を
時々微笑んだり、さみしさを堪えたりしながら
どこへ来てしまったのだろう
悲しいわけではないけど
何かやり残したようなもの悲しさが残る
インターネットの向こう側で
時々微笑んだり、涙を浮かべてたあの人は
どこへ行ったのだろう
こんな生き様でも
終わりは怖い
だからいつも迷う
大したことないね
ふらふらと訪れては
承認欲求も満たされず
ここを去っていく
繰り返し繰り返し
ぼくは旅人
ふらふらと出かけては
自分の存在を確かめながら
眠りにつく
繰り返し繰り返し
バラ色の千鳥足
しびれるコトバ
キノウも
キョウも
おそらくアシタも
バラ色の千鳥足
生きている感触と心もとなさ
不惑と書いてみた
明朝体でみるとなんだかあやしい曲線
何かドキドキさせる線のひとかたまり
「不」という文字のバランスの悪さと
「惑」という文字の怪しげな下心
座りの悪いそれらが互いに作用すると
なぜか前向きな言葉に見えてしまう
刷り込まれた固定観念の恐ろしいこと
不惑の前も後もわからず
不惑を信じ生きていく身の
なんと健気なことか
そんな不惑に支えられながら
きっと時代は廻っていく
ああ そういうことか
ふむ それはどういうこと
う〜ん それはどうかな
一つの事象に様々な反応があることは、別に不思議なことでもない
かえって健全なコミュニティがそこに存在する証拠なのだろう
でもそれは
富士山を山梨と静岡と両方から見るように
山手線の駅を、逆周りで読み上げるように
トリコロールか否かを語るように
きっとどうでもいいんだろう
苛立ちと絶望の中
薄着で笑っている術を得たいものだ
世界中の戦争でなくなった方に哀悼の意を表します。。。